by
千慶烏子
Language: Japanese
Release Date: October 14, 2001
人類の歴史にはじめてインターネットが登場したときに、人はどのような未来をそこに見いだし、詩人はどのような書物をそこに創造したのか──。
本書はSWFフラッシュ形式のデジタル作品として2001年に初版が出版された。わが国で最初かどうかは断定できないが、デジタルで書物を出版するという企ての最も初期に位置するものであることだけは間違いない。以来2003年、2007年、2011年と本書は版を重ねている。これはよく売れるから版を重ねているのではなく、伝統的な出版文化に慣れ親しんだ文学者が、デジタルと遭遇したときに、これをどう受け止め、そして作品の中でいかにデジタルを内面化し、またいかにしてそれをデジタルで表現するかに費やされた文学的営為の記録である。今回の電子書籍版を含めると、千慶烏子は、都合五回におよぶ出版と二十年の歳月を本書に費やしている。
先駆者の営為はそういうものなのかもしれないが、必ずしも正当に評価され、必ずしも正当に次代に受け継がれるものであるとは限らない。むしろそれは忘れられ、忘却の淵に沈み、長い年月を費やした後にあらためて発掘されるものであるのかもしれない。本書『TADACA』も発掘の時を待って忘却の淵に沈んでいると言っていい。千慶烏子が完成に十数年費やした本書オリジナル版は、映像と音響とテクストの融合したマルチメディア的なデジタル作品として制作された。その先進性と高度な芸術的達成に対し、当時は国内よりもむしろ海外から熱い賞賛が贈られたものであると聞く。制作に十数年を費やしたというだけあって作品の完成度は高く、映画『ラ・ジュテ』を思わせるモノクロームの映像と海辺の環境音が交差する本書オリジナル版は、まさしく「読む映画」と呼ぶにふさわしい段階に達している。おそらく詩人は、この映像・音響・言葉の重層する空間にデジタル化された書物の来るべき未来を見たのではないだろうか。
しかし、デジタル黎明期の詩人が見た夢は、テクノロジーの進化によって、容易く覆されることになる。携帯型デバイスの登場とその爆発的な普及により、千慶が情熱を傾けたSWF形式のフラッシュは廃れ、エディトリアル・デザインもまた、美的に洗練されたソリッドなレイアウトからマルチデバイス対応のリフロー型のデザインが主流になる。書物をめぐる洗練された美的な企て、あるいは芸術家の野心的な企ては、電子出版にとって無用の長物となる。2010年になると、電子書籍の国際的な標準規格が策定され、規格の統一が進む一方、書籍コードのデジタル適用のガイドラインが提案され、誰でも本を出版することができるという謳い文句のもとで、デジタル出版は画一的になり、平準化する。実験的で先鋭的な性格は失われ、大衆的で商業的な性格が強くなる。しかし、これはテクノロジーが普及し、広範な支持を獲得してゆく中で辿らざるを得ない一連の過程であるにちがいない。おそらく今日の読者の皆さんからするならば、千慶烏子のデジタル出版は、都市と都市とを結ぶ航空路が発達するはるか昔、大空に限りない夢とロマンを見たライト兄弟の絶えざる不可能への挑戦を思い浮かべていただくといいのではないだろうか。
この絶えざる不可能への挑戦のなかで、千慶烏子は、デジタルの登場という歴史的現象を哲学的な問いかけとして受け止め、これを内面化してゆくことになる。本書は、しばしば難解と言われる千慶の書物の中でも特に難解な作品である。この解説では、しばしその難解さに分け入って本書を簡単に概観してみたい。
本書『TADACA』は四章からなり、それぞれテクスト論・書物論・写真論・欲望論の「批評」を横糸に、二人の男女の不可能な愛の行程を描く「詩編」を縦糸に、作品は織り成されている。読者は交互に配された批評と詩編を読むことで、縦横に織り上げられたテクストの襞、文彩、織り込まれた模様を読み解いてゆくことになる。平易な作品を読み慣れた読者には、この構成は難しく映るかもしれない。だが、難解さに直面して辟易するよりも、詩編と批評の間を、テクストの織り目を、織り上げられたテクストの襞を辿りながら、デジタル黎明期の詩人が見た光景にひと時たゆたってみるのはいかがだろうか。それはわれわれの今日に直結する過去であり、過去の中に眠っている未来であり、未来において発現するであろう過去であり、これを紐解いてみることはわれわれの今日をより有意義なものにしてくれるにちがいない。
特に第三章「La...